廃墟チックな別荘地〜

天城ハイランド 歴史編


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歴史は、よく知りません。

永住されている高齢の方に、酒の席で聞いた話です。いろいろな人の話で信頼できそうな部分をまとめました。間違っていたら、または、これ以外に知っていらっしゃる方がいれば、ご連絡ください! (トップページ参照)

ニットー(日東時代)

最初に開発されたのは昭和年代 日東(ニットー)という会社が開発したようです。壮大な大規模別荘地計画で、地元も大歓迎だったとのこと。

当時は、ふもとの白田の集落から天城ハイランドまで街灯が立ち並び、光の帯が山頂まで続いてそうです。現代は、ライトアップなんて普通にありますが、昭和の時代を考えると、当時としては驚くべきことだったのかもしれません。

ところが、土地が売れた途端、ほったらかしに。道路も荒れ放題。それで、日東は、一旦倒産(?)したらしいです。計画的だったのか、意図せず倒産したのかは不明。

ちなみに、地元の年配の人に「天城ハイランド」といっても知らない人が多いです。「ニットー」というと話が通じます。「ああ、ニットーね、わかるよ。若いころ工事行っていたよ」とか言われることが多いです。

と、地元の人に言われますが、地元の人と本音で語ると、「ニットー」には、かなり悪い感情を抱いているようです。地元感情としては、詐欺に引っ掛かったという感覚でしょう。壮大な開発計画を立ち上げておいて、あっという間に手をひいて、巨大な廃墟別荘地が取り残されてしまった、という事みたいです。

これには、東伊豆町の主力産業である、わさび田の関係もありそうです。わさびは、水の綺麗なところでしか育ちません。ところが、「天城ハイランド」の別荘地は、浄化槽です。浄化槽というのは、ろ過はするものの、水分は垂れ流すものです。更に、古い時代の別荘は、浄化槽すらついていない家があります。つまり、浄化槽なしで「浸透枡」のみ。つまり地中に垂れ流しです。この垂れ流し別荘地が、わさび田の上流側にあるのです。当然、心配になりますよね。

ということで、ニットーの分譲当初を除くと、ここは酷い別荘地だったようです。年配の人に聞くと「昔は、ニットーというと、タクシーにも乗車拒否された。道が酷くて車が上がれなかった」とのことでした。タクシーが登れないって、いったいどういう道路だったんでしょうか。

ちなみに、今はそんなことありません。ひどい道ですが、一応、ファミリーカーでも上がれます。

なぜかといえば、ニットーがやったわけではありません。バブル期に再分譲があり、分譲業者が最低限の道路補修をしたのです。

バブルの再分譲時代

バブルの時代は、都会だけではなく、別荘地にもバブルが訪れました。

ほったらかしの廃墟別荘にも、目を付けた天才的な不動産業者がいました。

廃墟寸前の天城ハイランドの土地を、大量の土地を安く買って、それを20坪とか30坪の小さい区画にして再分譲したのです。これが売れました。

だいたい今、天城ハイランドに永住している60代くらいの人は、このバブル再分譲期に土地を買った人が多いです。

天城ハイランドへの林道が再整備されたのはこの時代だそうです。このバブル再分譲の後、車がなんとか入ってこれる程度の舗装がされたそうです。現在の天城ハイランドの道路は、基本的にこのバブル期の再分譲の時に整備されたものです。

現在

今現在、天城ハイランドを積極的に分譲しているのは、バブル時代に再分譲していた緑地株式会社、それ以外に、伊豆全体のリゾート物件を扱っているリゾート系の不動産会社がいくつかあります。

天城ハイランドに販売事務所を常設しているのは、今現在では、緑地株式会社の荒瀬さんしかいません。(ただし販売事務所は、片瀬白田駅から徒歩圏内の片瀬にあります)

上記のように、天城ハイランドは複雑な歴史のある別荘地ですが、大手ディベロッパーの高級別荘地と違って、素朴な感じが残っています。自然が豊かで、静かな環境なので、定年退職後に家庭菜園でもやりながら生活するのは楽しいかもしれません。